ヒトヒラの記憶

人はどんな時も、大人で子ども。

おかしな大人

 

 日本には、おかしな文化がある。

まぁ日本に限ったことではないのかもしれないけれど。

 

 差別はしてはいけません。というお決まり文句を、あなたも一度は聞いたことがあるだろう。

 親か、先生か、テレビか、ラジオか。その言葉はわりかしどこででも唱えられる、簡単、かつ解りやすい呪詛の言葉。

 

 なぜ、その言葉が呪詛なのか。

 

 幼少の頃から差別という言葉の意味を教わり、意識し、無意識に気にして、しまいには、やっちゃダメなことをしてみたい!という子どもの欲求が働く。

 

 どうしてそうなっちゃうのか、考えてみた。

 

 あなたも、一度はやったことがあるだろう。

 急いでいたから、赤信号を無視して渡った。

 面倒くさいから、横断歩道まで行かずにここで渡ってしまおう。

 歩道橋があるけど、自転車だし登ると疲れるから車道渡っちゃおう。

 自転車の扱いは車と同じだから、左車線を走る?そんな事してたら、自転車の意味ないじゃん。

 

 などなど。

上げだしたらきりがないけれど、大人になる過程で一度はやっている事。もしくは、やった事はないにしても必ずどこかで一度は目にしているはず。

 

 子どもはいつだって、早く大人になりたいと願うもの。

 そんな憧れの存在である大人が、子どもに対して“こんなことしちゃダメだよ”“危ないからダメだよ”と言ったことをやっている。

 それはすなわち、子どもにとっては“大人になったら、あれをやってもいいのか”という認識に少なからず、なる。無意識にでも。

 

 それを理解したうえで差別の話に戻る。

 要するに、子どもの頃からその言葉を耳にしていて“やってはいけないこと”とインプットされていても、当の大人が目の前でしてしまっては全く意味のない、むしろ逆の意味に切り替わってしまう。

 

 そして大人になる過程で無意識に“大人になったから、差別をしてもいいんだ”という感覚を持って成長する。

 すると小学校を卒業したあたりから、子どもは“そろそろ大人”と勘違いをするわけだから、その頃から差別がひどくなっていく。

 

 そうやって無意識に大人を見て育つ子どもたちに、大人たちは無意識に呪詛の言葉をかけて逆の意味として捉えさせてしまう。

 結果、いつまでたっても差別がなくならない社会が生まれる。

 

 つまり、私の言いたいことは。

 

 自分がやっている事を、子どもにやっちゃダメだと教えては逆効果になるよ。

と、子育てもしたことのない子無し既婚者のたわごとである。